ガス室・焼却炉について

国立オヒシフィエンチム博物館 訪問 アウシュビッツ ビルケナウ 強制収容所 そこは,絶滅収容所  第2次世界大戦中に,ここには150万人以上が連行され,その9割以上の人々が生きて帰ることはなかった。現在は,世界文化遺産に指定されており,たくさんの人が訪れる。あまり知られていないが,一番多く訪問するのはドイツ人で,保存の費用を一番多く拠出しているのもドイツ人である。 アウシュビッツ強制収容所    塀と鉄条網と監視塔に囲まれた建物 収容所への入り口 ARBEIT MACHT EFREI 「働けば自由になる」 唯一の日本人ガイド,中谷さん   高圧電流の流れていた鉄条網,監視塔 収容者の住居 木の3段ベッド 40人~50人用の部屋に,約200人が住んでいた。 この狭いベッドの一段に2人以上が寝かされていた。  建物の内部には,資料が展示されている。 虐殺に使用されたチクロンBの空き缶   収容者から集められた毛髪とそれで作られた毛布 かばんにくつ,衣類にブラシ 中には幼い子どものものも.. 絶滅収容所として... 点呼広場にある「集団絞首台」 みせしめとして死刑が執行された。 「死の壁」 ここで銃殺がおこなわれた。 ガス室 ガス室内部 天井のこの穴から,毒ガスが投げ入れられた。 死体焼却炉 ここでは,1日350人の死体が焼かれていた。 参考文献 「アウシュヴィッツ ビルケナウ案内書」(国立オシフィエンチム博物館) 内部リンク:こどものための「アウシュヴィッツ強制収容所」 "Arbeit macht Frei" 「働けば自由になれる」という標語がある正門前 今日もイスラエルからのユダヤ人学生たちが歴史学習に訪れる 1943年7月19日「仲間をかばった」という咎で写真のポーランド人収容者が公開絞首刑に処された(上下) 「強制収容所」被害者はユダヤ人が有名だが、実際はポーランド、チェコなどの被占領国市民、ロマ(通称ジプシー)や社会主義者、同性愛者、反体制運動家も多い 参考:むかしナチ収容所にいた老人 居住区各ブロック間には高圧電流流れる(当時)鉄条網があった その間に通路がある 中央は監視塔で右の建物は収容者からとった品物や猛毒チクロンBが保管してあった 多くの者が銃殺された「死の壁」 灰色部分には無数の弾痕が残る たくさんの花束が供えてあった ガス室(左)前の絞首台(復元)脇で「生き証人」から話を聞く学生たち 奥は死体焼却用煙突 ガス室(上写真の裏側から見る) 屋根上の小さな煙突状の場所から猛毒チクロンを投入する ガス室建物外脇にある内部見取り図と説明 <C>がガス室 使用済みのチクロンBの空き缶の山 これで何人が殺されたのだろうか? ガス室内部 天井にチクロンガスの投入口がある 死体焼却炉 参考写真:ダッハウ強制収容所の焼却炉 殺す前に収容者から取り上げた義足、松葉杖などが展示されている 館内展示には写真や資料だけでなく品物も多い これは「囚人服」 元居住区館内は展示館になっており、生々しい写真が数多く展示されている これは解放直後の収容者の写真 数多くの展示写真、資料のうちの「アンネ・フランク」の部分 展示写真・死体の山の若い女性 館内にある収容者用三段ベッド 連合軍(旧ソ連軍)に解放された直後の「運良く生き延びた収容者」たち (館内展示写真) 旧ソ連軍は「解放」された後もしばらくは「西側連合国」に当地を公開しなかったといわれる <ご注意・特記>    当ページ掲載の写真の一部施設はその様子から明らかに「戦後修復」されたと思われる物も多くあります たとえば「ガス室と焼却施設」や「絞首台」などは見かけから当時の物ではないと思われます それにも拘わらず、ユネスコが「負の世界遺産」と認定し、ポーランド国政府が復興・運営していることは、世界の歴史や国際関係に重要な意義があり貢献する-と認定しているからです 従ってここでは、展示物一つずつの真偽より全体として見てゆくことが肝要と思われます  「アウシュヴィッツ強制収容所」"KZ Auschwitz (-Birkenau)"の名はドイツ名で、当地ポーランドでは地名はオシフィエンチムと呼ばれます 従って、当地の施設名も正式には「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」と呼ばれており、「アウシュヴィッツ強制収容所」は通称名です  2003年2月のサイト・オーナーの訪問からはや5年以上が経過しました このページではすでに「子どものための「アウシュヴィッツ強制収容所」に掲載の当時撮影の一部写真だけを拡大して再掲しています <リンク> ポーランド国立オシフィエンチム博物館公式サイト(英・独・ポ語) 内部リンク:子どものための「アウシュヴィッツ強制収容所」(日本語) 百科事典Wikipediaアウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所(日本語)  世界の「アウシュヴィッツ関係サイト」検索結果一覧(英語)        このような大量殺人、殺戮はいずれの国であれ二度とあってはなりません 収容所内外で殺されたすべての方々のご冥福を心よりお祈りいたします May all the souls shot and killed in the German concentration camps during WW2 sleep in peace. May all the souls wounded and killed outside the concentration camps by NAZI sleep in peace.       (C)2003,2008 All Rights Reserved by Kenji Kakehi ショックアブソーバ及びガス室形成部材 【課題】ガス室のガスが透過して油室の油に混入することを防止できるショックアブソーバ及びガス室形成部材を提供する。 【解決手段】内部に油が充満した油室を形成するシリンダ12と、シリンダ12の内部を摺動するピストン24と、内部にガスが充満したガス室Gを区画形成しピストン24の摺動に応じて膨張又は収縮するガス室形成部材34と、ガス室形成部材34に形成されガスがガス室形成部材34を透過して油に混入することを防止するガス透過防止膜35と、を有する構成とした。 株式会社ショーワ (705) 【発明の詳細な説明】 【技術分野】 【0001】 本発明は、車両等に用いられるショックアブソーバ及びショックアブソーバの内部にガス室を形成するガス室形成部材に関する。 【背景技術】 【0002】 従来からショックアブソーバにガス室を設けたものが知られている。 例えば、従来のショックアブソーバは、油を充満させた油室を内部に備えたシリンダと、シリンダ内部の油室を摺動するピストンと、ガスを充満させたガス室を内部に備えた蛇腹状部材と、を有している(下記特許文献1参照)。 このショックアブソーバは、その伸行程時にピンストが油室を退出するとその退出分だけ不足することとなる油量を補うために蛇腹状部材が膨張してガス室の容積を増加させ、その圧行程時にピストンが油室に進入するとその進入分だけ増加することとなる油量との調整を図るために蛇腹状部材が収縮してガス室の容積を減少させ、ガス室の容積の調整によってピストンの摺動の際に発生する減衰力特性を安定化させるものである。 【0003】 【特許文献1】実公平2-20511号公報 【特許文献2】特許第3147695号公報 【発明の開示】 【発明が解決しようとする課題】 【0004】 ところで、上記ガス室を形成する蛇腹状部材は通常、ゴムで構成されているものであるが、ゴムの性質上、ガス室のガスが蛇腹状部材を透過して油室の油に混入してしまうことがある。ガス室のガスが油室の油に混入すると、キャビテーションが発生し易くなり、ショックアブソーバの性能が低下し、ひいてはショックアブソーバの製品寿命も低下する問題が生じる。 一方、蛇腹状部材を構成する物質としては、サスの応答性などの性能上、ゴムで構成することが好ましいが、ガスの透過を少なくするゴムの開発は現状困難である。 【0005】 そこで、本発明は、上記事情を考慮し、ガス室のガスが透過して油室の油に混入することを防止できるショックアブソーバ及びガス室形成部材を提供することを目的とする。 【課題を解決するための手段】 【0006】 請求項1に記載の発明は、内部に油が充満した油室を形成するシリンダと、前記シリンダの内部を摺動するピストンと、内部にガスが充満したガス室を区画形成し前記ピストンの摺動に応じて膨張又は収縮するガス室形成部材と、前記ガス室形成部材に形成され前記ガスが前記ガス室形成部材を透過して前記油に混入することを防止するガス透過防止膜と、を有することを特徴とする。 【0007】 請求項1に記載の発明によれば、シリンダの内部をピストンが摺動することによりガス室形成部材が膨張又は収縮し、ピストンの摺動によって発生する減衰力特性を安定化させる。 ここで、ガス室形成部材にはガス透過防止膜が形成されているため、ガス室のガスがガス室形成部材を透過してシリンダ内部の油室の油に混入してしまうことを防止できる。これにより、キャビテーションの発生を防止できるため、ショックアブソーバの性能の低下を防止でき、ひいてはショックアブソーバの製品寿命の低下を防止できる。 【0008】 請求項2に記載の発明は、請求項1に記載のショックアブソーバにおいて、前記ガス透過防止膜は、非晶質炭素膜であることを特徴とする。 【0009】 請求項2に記載の発明によれば、ガス透過防止膜が非晶質炭素膜であるため、ガスの透過を効果的に抑制することができる。また、従来のプラズマCVD装置により非晶質炭素膜を容易に形成することができる。 【0010】 請求項3に記載の発明は、請求項1又は2に記載のショックアブソーバにおいて、前記ガス透過防止膜は、前記ガス室形成部材の前記油と接触する表面又は前記ガスと接触する表面の少なくとも一方に形成されていることを特徴とする。 【0011】 請求項3に記載の発明によれば、ガス透過防止膜をガス室形成部材の油と接触する表面又はガスと接触する表面の少なくとも一方に形成するだけで足りるため、ガス室形成部材の材質を変えることなく従来のガス室形成部材をそのまま利用することができる。 【0012】 請求項4に記載の発明は、シリンダの内部の油室に配置されたピストンの摺動によって発生する減衰力特性を安定させるショックアブソーバのガス室を区画形成するガス室形成部材であって、前記ガス室形成部材には、前記ガス室のガスが透過して前記油室の油に混入することを防止するガス透過防止膜が形成されていることを特徴とする。 【0013】 請求項4に記載の発明によれば、ガス室形成部材にはガス透過防止膜が形成されているため、ガス室のガスがガス室形成部材を透過してシリンダ内部の油室の油に混入してしまうことを防止できる。これにより、キャビテーションの発生を防止できるため、ショックアブソーバの性能の低下を防止でき、ひいてはショックアブソーバの製品寿命の低下を防止できる。 【0014】 請求項5に記載の発明は、請求項4に記載のガス室形成部材において、前記ガス透過防止膜は、非晶質炭素膜であることを特徴とする。 【0015】 請求項5に記載の発明によれば、ガス透過防止膜が非晶質炭素膜であるため、ガスの透過を効果的に抑制することができる。また、従来のプラズマCVD装置により非晶質炭素膜を容易に形成することができる。 【0016】 請求項6に記載の発明は、請求項4又は5に記載のガス室形成部材において、前記ガス透過防止膜は、前記ガス室形成部材の前記油と接触する表面又は前記ガスと接触する表面の少なくとも一方に形成されていることを特徴とする。 【0017】 請求項6に記載の発明によれば、ガス透過防止膜をガス室形成部材の油と接触する表面又はガスと接触する表面の少なくとも一方に形成するだけで足りるため、ガス室形成部材の材質を変えることなく従来のガス室形成部材をそのまま利用することができる。 【発明の効果】 【0018】 本発明によれば、ガス室のガスが透過して油室の油に混入することを防止することにより、ショックアブソーバの性能が低下し、ひいてはショックアブソーバの製品寿命の低下を防止できる。 【発明を実施するための最良の形態】 【0019】 次に、本発明の一実施形態に係るショックアブソーバについて、図面を参照して説明する。 【0020】 図1に示すように、ショックアブソーバ10は、円筒状のシリンダ12を備えている。このシリンダ12の内部には、油が充満された油室Aが形成されている。このシリンダ12の一方の端部には、ブラケット14が取り付けられたキャップ16が装着されている。また、シリンダ12の他方の端部には、Cピン18とシール部材20とで位置決めされたベアリング22が設けられている。 【0021】 また、ベアリング22には、ピストン24が所定の方向(図1中矢印X方向)に移動可能となるように支持されている。このピストン24は、ベアリング22に支持されているピストンロッド24Aと、ピストンロッド24Aの先端部にナット26で取り付けられ油室Aを区画すると共にシリンダ12の内周面を摺動するピストン本体24Bと、を有している。このピストン本体24Bがシリンダ12の内周面を摺動することにより、所定の減衰力が発生するように構成されている。 また、ピストン本体24Bには、ピストン本体24Bを厚み方向に貫通する複数のオリフィス24Cが形成されている。また、ピストンロッド24Aには、オリフィス24Cの開口に隣接するように、リーフバルブ28が設けられている。このリーフバルブ28は、スペーサ30を介してバルブストッパ32によりピストンロッド24A上で位置決めされている。 【0022】 また、シリンダ12の一方の端部に装着されたキャップ16の近傍には、袋状のブラダ34が設けられている。このブラダ34の内部にはガスが充満したガス室Gが形成されている。ブラダ34の端部には、シリンダ12の内周面に圧接されるシール部34Aが一体形成されている。このブラダ34は、ゴム材料で構成されており、油室Aに位置している。また、シール部34Aの内周側にはリング状金具36が装着されており、このリング状金具36によりシール部34Aがシリンダ12の内周面に固定されている。 【0023】 上記ショックアブソーバ10によれば、ピンスト24をシリンダ12の他方の端部側に位置させて伸切り状態にし、油室A内に油を充満させた後、キャップ16側から高圧ガスをブラダ34の内部に注入し、ブラダ34の内部のガス圧が所定値となったところでキャップ16にプラグ38が圧入されてガス封入される。 ガス室Gにガスが封入されると、ピストン24が伸切り状態にあるときにブラダ34が膨張しガス室Gの体積が上昇しているが、ピストン24がシリンダ12の一方の端部側に移動する圧行程に入ると、ブラダ34が収縮しガス室Gの体積が減少する。このようにブラダ34の膨張、収縮によって、ピストン24の摺動時に発生する減衰力特性が安定される。 【0024】 ここで、上記ショックアブソーバ10のガス室Gを構成するブラダ34の外側表面OF及び内側表面IFには、非晶質炭素膜35がそれぞれ形成されている。 なお、この非晶質炭素膜35は、ブラダ34の外側表面OF及び内側表面IFの両方に形成されていることが好ましいが、ブラダ34の外側表面OF又は内側表面IFの一方に形成されていればよい。 【0025】 このように、本実施形態のショックアブソーバ10によれば、ブラダ34の外側表面OF及び内側表面IFの両方に非晶質炭素膜35が形成されているため、ガス室Gのガスがブラダ34を透過して油室Aの油に混入してしまうことを防止できる。これにより、キャビテーションの発生を防止できるため、ショックアブソーバ10の性能の低下を防止でき、ひいてはショックアブソーバ10の製品寿命の低下を防止できる。このことは、ガスの透過を防止できるゴムの開発が困難な今日の技術において、非常に有意義な効果と言える。 特に、ブラダ34の外側表面OF及び内側表面IFに非晶質炭素膜35を形成するだけで足りるため、ブラダ34の材質を変えることなく既存のブラダ34をそのまま利用することができる。 なお、ブラダ34の外側表面OF又は内側表面IFのいずれか一方に非晶質炭素膜35が形成されている場合でも、ガス室Gのガスがブラダ34を透過して油室Aの油に混入してしまうことを防止できるため、ショックアブソーバ10の性能の低下を防止でき、ひいてはショックアブソーバ10の製品寿命の低下を防止できる。 【0026】 次に、ブラダ34の外側表面OF及び内側表面IFに非晶質炭素膜35を形成するためのプラズマCVD装置について説明する。 なお、このプラズマCVD装置及びこの装置を用いた非晶質炭素膜35の形成方法は、従来から周知の技術であり、例えば、特許第3147695号公報で詳細に説明されている。 【0027】 図2に示すように、プラズマCVD装置40は、成膜室として用いられる真空容器42と、ブラダ34を載置するホルダを兼ねる第1電極44と、第1電極44に対向する位置に設けられた第2電極46と、を有している。 【0028】 第1電極44は、接地電極とされており、この第1電極44に載置されたブラダ34を成膜温度に加熱するためのヒータ48が付設されている。なお、輻射熱でブラダ34を加熱するときは、ヒータ48は第1電極44から分離される。 【0029】 第2電極46は、第1電極44との間に導入される成膜用ガスに高周波電力や直流電力を印加してプラズマ化させるための電力印加電極であり、マッチングボックス48を介して高周波電力発生装置50と接続されている。この高周波電力発生装置50には、マッチングボックス48に接続されたRF(radio frequency)パワーアンプ50Aと、REパワーランプ50Aに接続された高周波信号発生器50Bを備えている。 【0030】 高周波電力発生装置50は、図3(A)に示すように10MHz以上200MHz以下の所定周波数のサイン波連続高周波電力に図3(B)に示すような周波数の10000分の1以上、10分の1以下の変調周波数で第1の振幅変調を施し、オン時間T1、オフ時間T2が順次繰り返される状態の高周波電力を発生するように設定されている。オン時におけるピークツーピーク電力は一定である。 【0031】 また、真空容器42には、弁52を介して排気ポンプ54が接続されているとともに、成膜用原料ガスのガス供給部56が配管により接続されている。このガス供給部56は、1又は2以上のマスフローコントローラ56Aと、弁56Bと、成膜用原料ガスを供給するガス源56Cと、で構成されている。 ガス供給部56は、非晶質炭素膜35を形成するための炭化水素化合物のガス単体、又は炭化水素化合物のガス及びこれと共に非晶質炭素膜35を形成するための炭化水素化合物のガスとは異なる種類の異種ガス(例えば水素ガス)を成膜用原料ガスとして供給できるものである。 【0032】 ここで、炭化水素化合物としては、メタン(CH4)、エタン(C2H6)、プロパン(C3H8)、ブタン(C4H10)等のアルカン、シクロプロパン(C3H6)、シクロブタン(C4H8)等のシクロアルカン、エチレン(C2H4)、プロペン(C3H6)、ブテン(C4H8)等のアルケン、アセチレン(C2H2)等のアルキンを挙げることができ、そのうち1又は2以上のものを用いることができる。これらは単独で炭素膜の形成に用いることができるが、H2ガスや不活性ガス(ヘリウムガス(He)、ネオンガス(Ne)、アルゴンガス(Ar)又はクリプトンガス(Kr)等)等の異種ガスとともに用いて炭素膜を形成することもできる。 【0033】 次に、ブラダ34に非晶質炭素膜35を形成する方法について説明する。 【0034】 図2に示すように、先ず、ブラダ34が真空容器42内の第1電極44上に載置され、ヒータ48で所定温度に加熱される。また、このとき、真空容器42内が弁52の操作と排気ポンプ54の作動により所定成膜真空度とされ、ガス供給部56から所定量の成膜用原料ガスが導入される。そして、第2電極46に高周波電力発生装置50から上述の通り振幅変調を施した状態の高周波電力が印加され、それによって導入された成膜用原料ガスがプラズマ化され、このプラズマの下でブラダ34の表面に非晶質炭素膜35が形成される。 【0035】 ここで、ブラダ34の外側表面OFと内側表面IFの両方にそれぞれ非晶質炭素膜35を形成する場合には、一方の表面(例えば、外側表面OF)に非晶質炭素膜35を形成した後、ブラダ34の表裏を変えて他方の表面(例えば、内側表面IF)を表にした状態で再度同様の処理を行うことにより内側表面IFにも非晶質炭素膜35を形成することができる。 【0036】 また、例えば、ブラダ34のガス室Gのガスが接触する内側表面IFに非晶質炭素膜35を形成する場合には、先ず、図4(A)に示すように、従来品のブラダと同様にシール部34Aが外側に突出するような形状のブラダ34を成形型により成形し、その後、図4(B)に示すように、ブラダ34の表裏をひっくり返して外側表面OFが内側に位置し、内側表面IFが外側に位置するようにし、この状態で、図4(C)に示すように、プラズマCVD装置40により内側表面IFに非晶質炭素膜35を形成し、その後、図4(D)に示すように、さらにブラダ34の表裏をひっくり返して外側表面OFが外側に位置し、内側表面IFが内側に位置するようにすることにより、ブラダ34の内側表面IFに非晶質炭素膜35を形成することができる。 【0037】 なお、図5(A)に示すように、当初から、外側表面OFが内側に位置し、内側表面IFが外側に位置するようなブラダ34を新たな成形型を用いて成形し、その後、図5(B)に示すように、外側に位置する内側表面IFにプラズマCVD装置40により非晶質炭素膜35を形成し、さらに、図5(C)に示すように、ブラダ34の表裏をひっくり返して外側表面OFが外側に位置し、内側表面IFが内側に位置するようにすることにより、図4(A)から図4(B)に至るブラダ34の表裏をひっくり返す工程を省略することができ、ブラダ34に非晶質炭素膜35を形成する工程に要する時間を大幅に短縮することができる。 【0038】 (試験例) 次に、非晶質炭素膜35が形成されたブラダ34と同様の材料を用いて気体透過度試験を行った。 試験は、ガス透過防止を狙った袋形状のニトリルゴム(以下、適宜「比較例」とする。)と、非晶質炭素膜等の被膜が形成されていない(いかなるコーティングもされていない)袋形状のニトリルゴム(以下、適宜「従来例」とする。)と、外側表面に非晶質炭素膜が形成された袋形状のニトリルゴム(以下、適宜「発明品A」とする。)と、内側表面に非晶質炭素膜が形成された袋形状のニトリルゴム(以下、適宜「発明品B」とする。)と、を用いて行った。 【0039】 また、試験は、使用する試験装置(図6参照)の仕様範囲内のあらゆる気体の透過度を測定する方法で、試験片(上記各ゴム)によって隔てられた一方(低圧側)を真空に保ち、もう一方(高圧側)に試験気体を導入し、低圧側の圧力の増加によって気体透過度を測定するいわゆる差圧法で行った。 試験片として、ガス透過防止を狙った袋形状のニトリルゴム(比較例)と、非晶質炭素膜等の被膜が形成されていない(いかなるコーティングもされていない)袋形状のニトリルゴム(従来例)と、外側表面に非晶質炭素膜が形成された袋形状のニトリルゴム(発明品A)と、内側表面に非晶質炭素膜が形成された袋形状のニトリルゴム(発明品B)と、を用意した。また、各試験片の厚みは均一となるように設定した。各試験片の厚みは、各試験片の異なる部位を均等に3箇所測定し、その平均値を算出して決定した。 【0040】 ここで、試験で用いた試験装置について説明する。 図6に示すように、試験装置60は、従来から用いられているものであり、試験片80に気体を透過させるための透過セル60と、セル容積可変器64と、透過した気体による圧力変化を検知する圧力検出器66と、透過セル60に気体を供給するための試験気体供給器68と、真空ポンプ70と、試験気体収容容器72と、各配管74に適宜設けたストップバルブ76と、で構成されている。 透過セル62は、上部セルと下部セルとから構成され、これに各試験片80を取り付けたとき透過面積が一定となるものである。上部セルは試験気体の導入口が形成され、下部セルは圧力検出器に接続されている。上部セルの試験片80と接触する部位と下部セルの試験片80と接触する部位は、それぞれリークが起こらないように滑らかで、かつ平らとなるように形成されている。 圧力検出器66は、低圧側の圧力変化を5Pa以下の精度で測定できるものである。圧力検出器66には、水銀を用いた真空計、その他のマノメータ、隔膜型電子センサなどが使用される。水銀を用いた圧力検出器を使用する場合には、水銀は3回まで蒸留し直して使用することができるが、絶えず汚れをチェックし、必要があれば新しいものに取り替える。 試験気体供給器68は、試験気体をためておくタンクであり、上部セルと接続されており、高圧側セルに気体を供給するものである。試験気体供給器68として、タンク内の圧力を測定するために、100Pa以下の精度の圧力計をもち、透過によって高圧側の圧力が低下することを防止できる容量のものを用いた。 セル容積可変器64として、透過度の測定範囲を広げるために、増量タンクやセルアアダプタなどのセル容器可変器を使用し、低圧側の容積を調節してもよい。 真空ポンプ70は、測定系内を10Pa以下の圧力に排気できるものである。 試験気体は、N2ガスである。 試験温度は、25℃である。 【0041】 次に、試験方法について説明する。 先ず、透過面積と同じ大きさのろ紙78を、透過セル62を構成する下部セルに敷く。上部セル及び下部セルの試験片装着面に真空グリースを薄く均一に塗り、その装着面に試験片80をしわ及びたるみが生じないように装着する。このとき、試験片80の内側表面が試験気体(N2ガス)側(高圧側)となるようにセットする。次に、試験片80の上にパッキンをセットして、空気漏れが生じないように均一な圧力で固定する。次に、真空ポンプ70を作動させ、初めに低圧側、次に高圧側を排気する。そして、低圧側の排気を止め、真空に保つ。次に、試験気体を高圧側に約1気圧導入する。このときの高圧側の圧力Puを記録する。これにより、低圧側の圧力が上昇し始め、透過が確認される。次に、透過曲線を描き、透過の定常状態を示す直線部分が確認されるまで測定を続ける。次に、透過曲線の傾きから単位時間における耐圧側の圧力変化(dp/dt)を求める。 この試験の測定結果に基づいて、以下に示す数式1を用いて気体透過度GTRを算出する。 なお、気体透過度GTRとは、単位分圧差で単位時間に単位面積の試験片80を通過する気体の体積である。 【数1】 GTR:気体透過度(mol/m2・s・Pa) Vc:低圧側容積(l) T:試験温度(K) Pu:供給気体の差圧(Pa) A:透過面積(m2) dp/dt:単位時間(s)における低圧側の圧力変化(Pa) R:8.31×103(l・Pa/K・mol) 数式1により気体透過度GTRを算出後、以下の数式2を用いて気体透過係数Pを算出する。 なお、気体透過係数Pとは、気体透過度GTRに試験片80の厚さを乗じて、単位厚さ当たりの透過量に換算したものである。 【数2】 P:気体透過係数(mol・m/m2・s・Pa) GTR:気体透過度(mol/m2・s・Pa) d:試験片の厚さ(m) 上記数式2により気体透過係数Pを算出した。この算出結果は、下記の表1に示す。気体透過係数Pは、その値が小さいほど、気体が透過し難いことを意味する。 【0042】 【表1】 上記表1の試験結果に示す通り、発明品Aと発明品Bである非晶質炭素膜が形成されたニトリルゴムは、従来例である何もコーティングされていないニトリルゴムと比較して気体透過係数が大幅に低下し、ニトリルゴムを透過するN2ガスの透過量が大幅に低減できていることが判明した。 また、ガス透過防止を狙った比較例のニトリルゴムと比較しても、発明品Aと発明品BのニトリルゴムのN2ガス透過量が少なく、ゴムの材質、配合等を変える場合よりも有利であることが判明した。この結果から、既存のニトリルゴムの外側表面又は/及び内側表面に非晶質炭素膜を形成するだけで足りるため、既存のニトリルゴムの材質、配合等を変えることなくそのまま有効に利用することができる。 さらに、発明品Aと発明品Bとを比較すると、内側表面に非晶質炭素膜を形成する方が外側表面に非晶質炭素膜を形成する場合と比較して、効果的であることが判明した。 【図面の簡単な説明】 【0043】 【図1】本発明の一実施形態に係るショックアブソーバの部分断面図である。 【図2】本発明の一実施形態に係るショックアブソーバを構成するガス室形成部材に非晶質炭素膜を形成するためのプラズマCVD装置の概略構成図である。 【図3】(A)は基本高周波電力波形の概略を示す概略図であり、(B)は(A)の高周波電力に第1の振幅変調を施した状態の高周波電力波形の概略を示す概略図である。 【図4】ブラダに非晶質炭素膜を形成する工程を示した分図である。 【図5】図4に示す工程とは別の工程でブラダに非晶質炭素膜を形成する工程を示した分図である。 【図6】気体透過度を測定するための装置の概略構成図である。 【符号の説明】 【0044】 10 ショックアブソーバ 12 シリンダ 24 ピストン 34 ブラダ(ガス室形成部材) 35 非晶質炭素膜(ガス透過防止膜) A 油室 G ガス室 【特許請求の範囲】 【請求項1】 内部に油が充満した油室を形成するシリンダと、 前記シリンダの内部を摺動するピストンと、 内部にガスが充満したガス室を区画形成し前記ピストンの摺動に応じて膨張又は収縮するガス室形成部材と、 前記ガス室形成部材に形成され前記ガスが前記ガス室形成部材を透過して前記油に混入することを防止するガス透過防止膜と、 を有することを特徴とするショックアブソーバ。 【請求項2】 前記ガス透過防止膜は、非晶質炭素膜であることを特徴とする請求項1に記載のショックアブソーバ。 【請求項3】 前記ガス透過防止膜は、前記ガス室形成部材の前記油と接触する表面又は前記ガスと接触する表面の少なくとも一方に形成されていることを特徴とする請求項1又は2に記載のショックアブソーバ。 【請求項4】 シリンダの内部の油室に配置されたピストンの摺動によって発生する減衰力特性を安定させるショックアブソーバのガス室を区画形成するガス室形成部材であって、 前記ガス室形成部材には、前記ガス室のガスが透過して前記油室の油に混入することを防止するガス透過防止膜が形成されていることを特徴とするガス室形成部材。 【請求項5】 前記ガス透過防止膜は、非晶質炭素膜であることを特徴とする請求項4に記載のガス室形成部材。 【請求項6】 前記ガス透過防止膜は、前記ガス室形成部材の前記油と接触する表面又は前記ガスと接触する表面の少なくとも一方に形成されていることを特徴とする請求項4又は5に記載のガス室形成部材。 【図1】 【図2】 【図3】 【図4】 【図5】 【図6】 【公開番号】特開2006-70950(P2006-70950A) 【公開日】平成18年3月16日(2006.3.16) 【国際特許分類】 機械工学;照明;加熱;武器;爆破 (638,718) 機械要素または単位;機械または装置の効果的機能を生じ維持するた... (194,075) ばね;緩衝装置;振動減衰手段 (21,940) 減衰媒体として流体またはその均等物を用いるばね,振動減衰装置,... (5,685) ガスおよび液体の両方を用いるもの (130) 【出願番号】特願2004-252936(P2004-252936) 【出願日】平成16年8月31日(2004.8.31) 【出願人】(000146010)株式会社ショーワ (705) 【Fターム(参考)】 流体減衰装置 (13,869) シリンダ装置の種類 (4,016) 液体又は類似の媒体を用いる緩衝器 (3,121) シリンダピストン形 (2,173) 液室と気室に区切部材のあるもの (302) 袋状物による気室 (41) 細部構成の目的 (2,515) 強化 (260) [ Back to top ] メニュー 書誌事項 図面 スポンサー リンク 次の公報 » 真空断熱パネル、冷却貯蔵庫及びラミネートフィルム « 前の公報 トロイダル無段変速機     総合トップ | 国際特許分類 | Fターム | 出願人 | 全文検索 | ページの先頭へ © 2005-2013 ekouhou.net もどる アウシュヴィッツ - ビルケナウ/ポーランド(更新日:2010年05月25日) 《40歳以上の女性へ》真実の扉tobira.in 貴女が今まで知らなかった本当の自分が見つかります。/スマートフォン専用 インタレストマッチ - 広告掲載について アウシュヴィッツ強制収容所の様子 第一収容所アウシュヴィッツのガス室内部。シャワーを待つ裸の囚人たちの間に毒ガス・チクロンBが投入されると、20分にわたり苦しんだあげく亡くなっていったという ©牧哲雄 アウシュヴィッツには3つの収容所があった。第三収容所モノヴィッツ旧ソ連によって破壊されて現存しないが、現在はふたつの収容所を見学できる。簡単に見所を紹介しよう。 ■第一収容所:アウシュヴィッツ 1940年開所。28棟が建てられて、現在13棟が見学可。 正門:「ARBEIT MACHT FREI」のアーチで有名な門 4号棟:チクロンBの空き缶や、犠牲者たちの髪の毛、髪でできた布などが展示されている 5号棟:囚人たちの遺品、メガネや義手義足、靴などが並べられている 6号棟:囚人たちの顔写真が並んでいる 7号棟:ベッドやトイレが見学できる 死の壁:銃殺はここで行われた 11号棟:死のブロック。裁判室などの他に地下監房には餓死室や窒息室、立ち牢などがある 絞首台:ここに首を吊った ガス室と焼却炉:「シャワーを浴びに行こう」と呼びかけられ、集まった囚人たちの間に天井の穴からチクロンBが送り込まれた  ■第二収容所:ビルケナウ 第一収容所から約5km。第一収容所が手狭になったことから1941年に開所。最盛期には300棟が建てられ、10万人近くが詰め込まれた。現在残るのは70棟ほど。 死の門:ユダヤ人らを乗せた列車はここを通って中に入り、収容された バラック:木造、あるいはレンガ造りの収容棟 洗面室:本当のシャワー室 ガス室と焼却炉:ナチスによって爆破され、残骸が残っているのみ 死を待つ林と遺骨を捨てる池:ガス室へ送られる前に林で整列させられ、焼却炉で燃やされた後、灰は池に捨てられた 国際犠牲者記念碑:犠牲者の数は150万人と書かれている 昭和40年代生まれの女性へtrue-guidance7.com この世代が今抱えている悩みに最良なアドバイスを!今だけ初回無料 クレジットカード審査落ちた方へcreditcard-labo.info クレジットカード審査落ちの場合は⇒10秒簡易審査、即日発行、年会費無料/提携 インタレストマッチ - 広告掲載について 前へ次へ3 of 5 執筆者 長谷川 大 この記事を読んで良かったですか? 良かった良かった SNSアイコン 中央に見える絞首台で、アウシュヴィッツ強制収容所を作った収容所長ルドルフ・ヘスが1947年4月16日に戦犯として処刑されました。写真と説明が右に見えます。絞首台の前を左に曲がるとガス室の入り口です。 第一ガス室、焼却炉の入り口です。 ガス室の内部です。かび臭い匂いがします。大体7m×30mくらいの広さです。一度に約2000人の人々が押し込められ、天井の穴からSSの衛生兵がチクロンBを落としました。15分から20分で絶命したそうです。写真がにじんでいるのは、雨が降っていたために、レンズに水滴がついていたからです。 ぼんやり見えるのは、私のセルフ・ポートレートです。幽霊ではありません。 ガス室内部の壁です。 ガス室を出たところです。ガス室で殺された犠牲者の歯の詰め物を抜いたりした場所です。ユダヤ人から没収したり、このようにして死体から取り出した貴金属をナチス・ドイツ政府は、スイス銀行を通じて換金し、戦費にしていました。スイス銀行は主にアメリカにその貴金属を輸出していました。ですから、戦時中、ドイツとアメリカは、スイスを通して奇妙な貿易をしていたことになります。実はこのことが今、スイス銀行の歴史的汚点として問題になっています。この商売で莫大な利益をあげているのですが、その賠償をこれまで、スイス銀行は一切してきていません。金(キン)が金であることに変わりはないとはいえ、こんなところで死体から抜き取った金で金儲けをするというのは、恐ろしい限りです。恐怖は想像力が産み出すものですから、こういうことに携わった人々(ナチス・ドイツもスイス銀行も)の想像力の欠如、人間であることの放棄ということなのでしょうか。 犠牲者を燃やした焼却炉です。 焼却後の灰を取り出したところ。 外から見たガス室。向かって右が入り口。収容された人々にとっての唯一の出口と言われた煙突が見えます。 ガス室の出口。出口といってもここから出てきた人はいない。歯の詰め物や指輪、頭髪など、最後の略奪品と、灰だけ。 http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz47.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz58.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz46.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz51.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz57.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz57.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz52.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz49.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz49.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz56.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz59.jpg http://homepage3.nifty.com/kashiwagroup/negatives_erbe/auschwitz/auschwitz54.jpg  最後の暗闇   ~ガス室~  戦争、虐殺、拷問・・人類の歴史は、こうした殺戮の事件の連続で、歴史上における悲惨な事件は枚挙に暇がない。が、何も<人類の歴史>などといった、そんな大それた言いかたでなくても、現代における毎日の生活の中でさえ、ほんの身近な場所や場面には、絶え間ない殺意が満ちているというか、信じ難い猟奇的殺人事件が次々と起こったりしている。  しかし、そうした恐怖の歴史の中でも、おそらく最も悲惨で、最も究極の形、おそらくこれ以上恐ろしい事を成し得ることは出来ない、人類最凶最悪の到達点は、ここアウシュビッツのガス室であることは間違いないだろう。人類最大の禍根の頂点の場所に、ついに私は到着したのだった。  ガス室の周りは、緑の木々に囲まれた、たいへん静かで美しい場所だった。だからこうしてガス室の真ん前に来ても、50数年前にあんなことが起こった場所だとはとても思えないというか、怖さを感じることはなかった。今私が立っているこの場所は、<夜と霧>の一場面にあったような、ガス室で殺害された囚人が、焼却炉が一杯のために焼き切れず、無造作にガス室の外に放置され、死体が山積みされていたあの場所のはずだ。地面一杯に広がる、裸の死体の山・・・私(に限らないと思うが)など、広い幹線道路を車で走っている途中に、ほんの1匹のネコの死骸をみつけ、その横を通過しただけで、その後の数分間は大変気持ちが悪い感じになることがあるが、そういう意味ではこの場所は、もう想像の範囲を完全に超え切った場所だったはずである・・・が、今この場所に立っても、不思議と<気持ち悪さ>は感じなかった。むしろ、包み込まれるような安息の雰囲気さえある。  先にガス室に入った学生見学旅行者の集団が、反対側の出口からゾロゾロと外に出てきた。おそらく今は、ガス室にはほとんど誰もいないはずだ。私はルドルフ・ヘスが吊るされたという絞首台の前にある、ガス室への狭い入り口をくぐって、ついに中に入った。入口を抜けると、そこはコンクリートで囲まれた、奥行き10数メートルくらいの部屋であった。視界はかなり悪い。部屋を照らしているのは、天井についている小さな電球2個と、部屋の一番奥の部分に灯っている、ぼのかなロウソクの明かりだけで、実際のガス室における視界は、ぼんやりとオレンジ色に染まっているという感じである(写真)。ひんやりとしたガス室。今は死臭もガスの臭いも何もない、ビルの地下室のようなたたずまいでああった。    実際にこの部屋が<使用>されていた時は、電球は1個しかついていなかったとか、全くついていなかったという話もある。だとすれば、今でさえ視界が悪いこの部屋は、当時は真っ暗闇だったはずである。囚人はあの狭い入口から、シャワーを浴びる為だと騙され、この暗い部屋に鮨詰めにされ、視界をほとんど閉ざされたまま、数分後に死んだのだろう。フラッシュをたいて中を撮影してみると、こんな感じ(写真右下)で、本当にただのコンクリート部屋だ。水が出たことのないシャワー管(写真)、天井に残る通風口のような穴(写真)。全てが当時のまま残っている。あの銃殺された死の壁もそうだったが、人間が最後を迎えるにしては、あまりにも寂し過ぎる、何の望みもなさ過ぎる場所・・しかもここでは、死の壁と違い、最後の瞬間には視界も完全に遮られた。通風機のフタが開き,小さなひとかたまりの青色の雨が降り注ぐ・・・毒ガスによる苦痛。絶対に逃げる事の出来ない場所。  映画<夜と霧>のパンフレットには、生存者の報告として、あまりにも生々し過ぎる次のような記述が掲載されている。 -何人かの捕虜が、何かの使役で、殺人直後のガス室に行き合わせた事がある。そこで彼らは、死の苦痛にさいなまれ狂乱を物語る死体の山を見た。半ずわりの姿勢が多く、死体は桃色、ある部分が緑の斑点で覆われている。ある者は口から泡を吹き、ある者は鼻血を出している。多くは目を大きく見開き抱き合っている。ドアの近くでひしめき、ガス口の下にはほとんどいない。何とか脱出しようとあがいた壁の爪痕。その姿は恐怖そのものだった。こうして、ドアが閉められ、ガスが流れ出して死への短い時間に人々は、はじめてナチスの欺瞞と残虐を知ったのであろう。彼らは叫んだに違いない。だが彼らの声は、厚いドアから一言も外へ漏れなかったのだ-  もちろん、銃殺もガス室も、両方とも悲惨な死であることは間違い無いし、私が最初の方に書いたように、アウシュビッツ最大の悲劇は、ここでどのように殺されたか、という最期の問題ではなく、生きている時からの死の瞬間までの、あまりに長い恐怖のプロセスが継続した事だと思っている。ナチスの追撃に脅え、ついに逮捕され、収容所に連行され、強制労働下に置かれ、そして最期は銃殺か殴殺か毒殺か、あるいは餓死か病死か・・・・何にしても、飛行機事故や交通事故による死とは違って、何年も何日も、死の恐怖に脅え、何の希望も持たされぬまま生きつづけなければならなかったその期間、それを引き起こしたことがアウシュビッツの罪だと思う。  そんな彼らの生きつく先が、このガス室というのは、駄目押しの駄目押しとでも言おうか、これ以上ない究極のトドメというか・・・囚人の中には、この部屋に入れられて、ガスが噴射されても、しばらく息を止め、何秒かの抵抗を試みた人もいたことだろう、先に倒れていく囚人たちの姿を見ながら、彼は何を思ったのだろうか。想像が絶対不可能な世界の連続だ。  部屋の一番奥まで歩くと、この部屋を照らすロウソクは、1つだけではなくいくつも置かれているのが分かった(写真)。明かりに近い部分で私は、<夜と霧>で映し出されていた、ガス室の天井についていると言われている囚人の爪痕を探してみたが、コンクリートが少し劣化してひび割れしている部分も多く、どれが劣化でどれが本当の爪痕なのか、探し出す事は困難であった。  ガス室のすぐ横には、死体を焼く釜が残っていた。とても50年前に使われていたものとは思えないほど、小綺麗な釜(写真)。体のデカイ欧米人を入れるにしては、やや間口が小さい。ここにも、鎮魂のロウソクがいくつも置かれていた。元々このガス室は、死体の安置所だったらしく、安置所に連れて来られた死体を、次々に焼いていったが、あまりに囚人がドンドン死ぬので、あと2つ増設したらしい。そのうちの1基が、1つめの釜の後ろに置かれている。やがて死体安置所がガス室になると、もう釜では処理し切れない為、<夜と霧>で見たように、遺体は外に出され、薪を死体と死体の間に挟み、山積みされた状態で焼かれたわけだ。  私は2つあるガス室の出入り口のうち、最初に入った場所とは反対側のほうから外に出た。鎮魂のロウソクが霊を慰めているのか、暗いガス室の内部にいた数十分の間、私は<恐怖>を感じる事はほとんどなかった。それは驚きでもあり、救いでもあった。確かにこの場所では、取り返しのつかないことが起こったわけだが、世界中からの絶え間無い来訪者の思いが、さまよえる犠牲者の魂に慰めを語り掛け、霊は静かに眠っているのかもしれない・・  パンフレットに載っている見学順路を終え、私は鉄線の外側を通って(写真)、正門のほうに向かって歩いた。私は、どうしてもここに来たかったという念願を、ついに達成したという満足感もあるにはあったが、むしろ何とも重々しい、どんよりとした感覚が心の中に浮かんでくるのも感じていた。空は、最初に訪れた時の好天とは打って変り、雨が上がった後も鉛色の雲に覆われていた。ちょうど私の心境のようだった。  本当なら、もう少し、もう1回ゆっくりこの場所を回って見たい・・しかし既に時計は4時半近くを示していた。ここから2キロほどの距離にある、<アウシュビッツ2号・ビルケナウ(ブジェジンカ)>の閉館時間は午後6時らしい。やむをえず私は、アウシュビッツを後に、ビルケナウに向かうことにした。いつかもう一度、ここに来なければという思いを胸に。 【博物館パンフレットより】  焼却炉は収容所を取り囲む鉄線の外にある。その入口の前には絞首台があり、1947年4月16日にはアウシュビッツ収容所元所長・ルドルフ・ヘスの死刑執行が行われた。  囚人たちは生命の危機に瀕しながらも、SSに対して抵抗運動を試みた。収容所付近に住んでいるポーランド人と密かに連絡を取り、収容所内に食料品や薬を送り込むようにしたのである。収容所からはSS犯罪の資料が外に流された。囚人・SS隊員の名簿も外に送られていた。それらの資料がナチスにみつからないように特別に作られた容器に入れられたり、暗号で手紙が送られる事もあった。  収容所内では反ナチスの連帯感を高める為の、いろいろな活動が水面下で進行していた。文化的活動や宗教的な活動も行われていた。アーティスト達は密かに創作活動もしていた。   ポーランド旅行(その7) アウシュビッツ(4) 2012/11/10(土) 午前 11:07   第一収容所の左奥に進むと絞首台がありました。   収容所内部中央のところには、この絞首台の3倍くらいもある絞首台があって、多くの囚人 が絞首刑に処せられたといいます。この絞首台の左には、かのガス室があります。元、収容所 所長であったルドルフ・ヘスは、戦後の戦争裁判の後1947年4月16日にこの絞首台で処刑され たといいます。    絞首台の隣には、このガス室があります。ビルケナウのガス室は証拠隠滅のため爆破 されてしまいますが、ここ第一収用所では当時の姿で残されています。ご覧のように半地下 の構造になっています。   残された煙突は、死体焼却炉の煙突です。    ガス室入口    ガス室内部                 この穴からチクロンBという殺虫剤が投じられた    ガス室内部の壁には人の爪痕だろうか?痛々しい痕跡が残されている。    V・Eフランクフル著の「夜と霧」巻末に、このガス室での虐殺の目撃者、クルト・ゲルシュタイン が自らの体験を次のように書きしるしている。  「彼らは革の鞭で貨車から追い出され、全財産を放棄させられ、全裸にされた。女性は毛髪を 全部そられた。そして列をなしてガスかまどへと向かった。(中略)  ついに戸がしめられた。 入りきれなかった次の人々は全裸で外で待っているのであった。(中略)  ガスを注入するディーゼルが始動しはじめ、25分後には大部分が死に、28分後には生きて いるのはごく少数になり、32分後には全員殺されていた。それを小さなのぞき窓を通して人は 見ることができるのであった。  やがて反対側の戸がひらかれて死体を片づける作業が始まった。死体は互いに密着して よりかかっていた。死者の中の家族はすぐ判った。なぜならば、死の苦しみの中にも抱き合っ ていたからであり、それを解き放つのには骨が折れたからである。  死体は汗や尿で濡れ、便でよごれ、月経の血が足の間に流れでていた。24人の歯科医が 死体の口をハーケンでこじあけ、金歯を抜き取った。また、宝石や金がかくされていないかと 膣や肛門が調べられた。」 旅行・見聞 ヨーロッパ   『アウシュビッツ』の続きである。人を殺すことの沙汰を、これらの写真からどうぞ感じてもらいたい。    これら写真を見て「え~気味悪い」と思った方。そう思って当然だと思う。だけど、いっておくけど、『お化けや霊が出る』とかのたぐいの話ではない。    実際のところは、 『人が人をいとも簡単に殺せる』という事実に気味悪さを感じたのだ、  と私は思う。   ↓ ④ガス室内部。ここで猛毒『チクロンB』が天井のノズルから噴射され、数十万単位の人々が命を失ったとされる。     ↓ ⑤それらおびただしい死体は、この焼却場で順次焼かれ灰になった。焼却場は24時間稼働していたようだ。     ↓ ⑥第1収容所では間に合わなくなったために、数キロ離れた草原につくられた第2収容所『ビルゲナウ』。一見すると、広大な牧場にしか見えなかった。映画『シンドラーのリスト』には、この場所が出てくる。   =第2弾終わり= ~第3弾『ビルゲナウの毒ガス室』と『アウシュビッツ収容所所長の処刑台』は明日~ 4日目~アウシュヴィッツへ①~ カテゴリー:旅日記 投稿:2012/06/0519:00 コメント(2)TB(0) 上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 この記事を書くのに、時間がかかってしまいました。。 久々のハンガリー&ポーランド旅行記事のUPです。 私の知識不足により、誤っている箇所があるかもしれません。 そのときは、ぜひご指摘いただけるとうれしいです。 4日目 ~アウシュヴィッツへ①~ 天気: 服装:キャミソール、7分袖のニット、カーディガン、ジーンズ、スニーカー いよいよアウシュヴィッツへ。 今回の旅行で、唯一準備をしていたものが、このアウシュヴィッツの見学についてでした。 4月から10月の間は大変混雑するため、10時から15時までの入場については、個人での入場が制限されます。(アウシュヴィッツ博物館のガイドツアーに参加する必要があります。) ※あくまでも個人でのお話です。年度によっては、規制される時期や時間は違ってくることがあると思いますので、詳しくは公式HPを確認してくださいね。 そのため、私にあった選択肢として ①10時~15時以外の時間に入場する ②ガイドツアーに参加する(常駐のガイドさんは英語、ポーランド語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語) ③日本語のガイドの方に、事前予約してそのガイドツアーに参加する 私が選んだのは「③日本語のガイドツアーに参加」でした。 いつもなら①を選んだと思うのですが、英語が堪能ではないため、展示物の詳しい情報が私の力だけでは得にくいと判断し、また、常駐のガイドツアーへの参加も同じ理由で却下しました。 地球の歩き方にも記載がありますが、日本語でガイドツアーを行える公認のガイドさんは1人しかいらっしゃいません。 その方は常駐ではないので、メールで連絡を取り、事前にガイドを予約しました。 ちなみに、“アウシュヴィッツ”というのはドイツ語で、ポーランド語では“オシフィエンチム”と言うのだそう。 クラクフで、アウシュヴィッツへの具体的な行き方をインフォメーションセンターで確認する時も 意識して“オシフィエンチム”と言うようにしていました。 人によっては、不快な思いをする方もいらっしゃると思うので。 ということで、前置きはここまで。 いわゆる世界遺産のアウシュヴィッツ強制収容所というのは、オシフィエンチム市(ドイツ語でアウシュヴィッツ)に立てられたアウシュヴィッツ第一強制収容所と、その隣のブジェンジカ村(ドイツ語でビルケナウ)に建てられた第二強制収容所を指しています。 「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチスドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)」というのがユネスコの世界遺産として登録されている名前です。 アウシュヴィッツ第一強制収容所の跡地は現在、オシフィエンチム博物館としていろんなものの展示がしてあります。 ■アウシュヴィッツ第一強制収容所入り口 写真がよくないのですが、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる。直訳は“労働は自由を作る”というようです)」と書いてあるのだそう。 収容された方のささやかな抵抗と言われている、さかさまになった「B」の文字はあまりに有名です。 この看板は2009年に盗まれてしまったため、現在はレプリカがかかげられています。 本物は後に姿で後に発見され、今は修復が完了しているとのこと。   (写真左)ここで何が行なわれたかを知らなければ、言葉が適切か分かりませんが、等間隔に建てられた      建物、木、緑と、きれいに整備された場所でした。 (写真右)当時の様子を描いた絵。       左の写真と比べてみると、木が大きく成長していて、月日の流れを感じます。 アウシュヴィッツ第一強制収容所は、現在博物館としていろんな展示がされています。 右下に、アウシュヴィッツ第一強制収容所、左上がビルケナウ第二強制収容所。 その大きさの違いがよく分かります。 ビルケナウは東京ドーム37個分もの広さがあるそうです。   (写真左)祈りのマント      心の拠り所さえも奪われてしまったことが分かります。 (写真右)かばん      収容所を出るときに自分のものが分かるようにと、持ち主が名前や住所を書いていたのだそうです。   (写真左)ハンドクリーム (写真右)おびただしい数のメガネ   (写真左)義足 (写真右)靴      小さい子供の靴も見えていました。 毒ガスの残骸   (写真左)死の壁      この壁の前では地位が高かったり優秀な方、ナチスの政策に対して反対した方が銃殺されました。 (写真右)そのため、誰が殺されたかが外部に広まらないように、死の壁の両脇にある部屋の窓はふさがれていたそうです。   (写真左上)ガス室外観 (写真右上)うす暗いガス室内部 (写真左)遺体の焼却設備。      ガス室で殺された方はガス室内にある焼却施      設で焼却されました。      恐ろしいほどに効率化されています。   (写真左)ここはアウシュヴィッツの所長が家族(妻、子ども)と住んでいた家。      強制収容所のすぐ隣に立っています。      大勢の人が日々収容され殺されている収容所の有刺鉄線を挟んですぐ隣にあります。 (写真右)この所長は、自身が大量虐殺を行なったアウシュヴィッツの地で絞首刑となりました。 公認ガイドの中谷さんはおっしゃっていました。 どうしてこんなにひどいことができたのか、と思うでしょう。 でも彼が特殊な人間だったからこんなことが起きたのではない。彼は家に帰れば普通の夫で、普通の父親だったのだと。 そして、もし自分が同じ立場になったとき、絶対にこんなことをしないと言い切れるだろうか。 遠いところで起きた出来事ではなく、自分の問題として考えてほしい。 と。 このお話はとても印象深く記憶に残っています。 長くなってしまったので、ビルケナウの様子はまた別にUPさせてください。 にほんブログ村 にほんブログ村 コメント を書く コメント (2) TB (0) トラックバックURL 前の記事 ホーム 次の記事 ページトップ スマホで見れます!FC2動画 注目記事 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門の上には「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」という標語が書かれています。 ここに収容されていた囚人たちは、1日12時間以上の重労働を強制され、 毎日この門を通って働きに出かけていたそうです。 このプレートを造らされたのもここに収容されていた囚人。 「B」の文字が逆さまに見えることについて、 ドイツ軍に対する作者(囚人)のささやかな抵抗と考えられています。 当時の囚人たちが門を通って働きに出ていく姿を描いた絵です。 収容所内の囚人棟。 意外と立派な造りです。 収容所内には28の囚人棟があり、一時は2万8千人もの囚人が収容されていたこともあったそうです。 現在これらの囚人棟のいくつかは博物館風に改装され、自由に入れるようになっていて、 当時の写真や囚人リスト、遺品など様々なものが展示されています。 特に衝撃的だったのは囚人たちの遺品。 囚人たちが収容所に送られてきたときに持参していたもので、ドイツ軍に没収されたものです。 食器の山。 他にもメガネの山。ブラシと櫛の山。靴の山。カバンの山。 義手や義足の山。などなど・・・。どれも膨大な量でした。 これらの奪った品々は、その度にドイツ本国に送られ、ドイツの兵士や市民が利用していたそうですが それでも倉庫はいつも満杯だったそうです。 ドイツ軍は解放直前に、証拠隠滅にこれらの倉庫に火をつけていったそうですが、 焼け残った倉庫から、この品々が出てきたとのことなので、これでもほんの一部にしか過ぎないのです。 壁には犠牲者の写真が ずらっと並んでいます。 膨大な数ですがこれらも ほんの一部の犠牲者たちの写真でしかないらしい。 当時の一日分の食事(再現)。 朝食は、コーヒーと呼ばれた500ccの茶色の液体(写真手前)。 昼食は、1リットルのほとんど水のような腐った野菜で作られたスープ(写真右奥)。 夕食は、300~350gの黒パンと3gのマーガリン、それと薬草の飲み物だけ。 まずそう・・・。 栄養失調でやせ細った 子供たち。 右の女性は身長160cm。 収容前は75キロあった体重が 解放時には23キロまで減っていたそうです。 ろくな食事も与えられず、この体で過酷な労働を強いられていたそうですから、 本当に胸が締め付けられます・・・。 ガス室行きは免れても 餓死、過労死、病死、凍死・・・たくさんの人々が亡くなったそうです。 共同トイレ。 共同洗面所。 死の壁死の壁・・・。ここで銃殺が行われたそうで、当時のまま残されています。 ここで数千人もの人たちが ささいなことで銃殺されたそうです。 死の壁の前にはたくさんの花などが供えられていました。 死の壁に立たされる囚人の絵です。 裸にされ、壁に向かって立たされ、銃殺されたそうです・・・。 なんともいたたまれない気持ちになります。 写真はありませんが11号棟の地下には立ったまま身動きが取れない立ち牢、飢餓牢、窒息牢などの牢屋も 生々しいほどに当時のまま残っていました。 ガス室の入り口。 写真を撮るのもためらいましたが・・・ガス室内部です。 ここで何千人もの人が苦しみながら亡くなりました。 想像するだけで身震いがしてきます。 遺体を焼くための焼却炉。 犠牲になった人たちの冥福を祈るばかりです。 有刺鉄線。 昔は電流が流れていて、 絶望からここに身投げをして 自ら命を絶った人もいたそうです。 はぁ・・・。 ここまで書いて、自分もちょっと息き苦しくなってきました。 この第一強制収容所を見学した後、3キロほどの距離にあるもう一つの第二強制収容所(ビルケナウ)に 向かいましたが、長くなりますし、ここで一回〆ま~す。 つづく。 旅行 ヨーロッパ Ads by Yahoo! 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ガス室・焼却炉

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ガス室・焼却炉の外観

 ここが有名なガス室である。1942年、親衛隊長官のヒムラーが、ここアウシュビッツを視察した。当時ユダヤ人たちはすでにここに収容されており、毎日過酷な労働が強いられていて、「死の壁」での銃殺や絞首台での処刑が行われていた。しかし、アウシュビッツは元々ユダヤ人の絶滅を目的に造られた収容所なので、ヒムラーはそのような処刑の仕方に物足りなさを感じていた。そして「生産的に処分しろ」と命令していったのだ。

 その結果、焼却炉があった建物の一部屋がガス室に改造された。これまでの処刑よりも能率的な大量虐殺をしようという目的で造られたのだ。

 この建物の煙突は、収容所の入り口付近からも見えるので、収容所に送られてきた囚人たちもまず視界に入ってきていたと思う。そんな彼らに対して、収容所管理局長はいきなり「お前たちに出口は一つしかない、焼却炉の煙突だ」と言っていたらしい。

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ガス室の内部

 この建物の中は薄暗い。薄暗い中を歩いていくと広い空間に出る。ここがガス室として使われた部屋である。すぐ奥に焼却炉があるのだが、この部屋は元々は死体安置所として使われていたそうだ。

 現在はコンクリートがむき出しの何もない部屋だが、この部屋で過去に行われていたことを想像すると身震いしてくる。

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ガス室の天井の穴

 ガス室に囚人たちが入れられると、この天井にある穴からチクロンBが投げ入れられた。当時は見せかけのシャワーが天井についていたそうだ。

 「シャワーを浴びるため」と言われて、大勢の囚人が丸裸でこの部屋に入れられた。そして、入り口の扉が閉められる。それまでガス室の噂を聞いていた囚人たちは、この薄暗い部屋こそがそのガス室であると直感していただろう。その時の恐怖感は想像を絶するものだったに違いない。

 チクロンBが投げ入れられてから囚人たちが息絶えるまで、20分ほどだったそうだ。だんだん息ができなくなってくる、一番苦しい死に方である。ガス室で殺された女性の写真は、映画「夜と霧」で登場するのだが、口が半開きになっているため、微笑んでいるようにも見える。

 現在ガス室の壁や天井のコンクリートに傷などは残っていないが、当時は毒ガスの中で苦しむ囚人たちが引っ掻いて、無数の爪痕を残していたらしい。

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焼却炉

 焼却炉は、当時は3台あったそうだが、現在はそのうち2台が保存されている。それぞれの炉に2~3人ずつ死体を入れて、1日に350人ほどの死体を焼いていたらしい。想像もつかない数だが、一応計算してみよう。3台あったので、1日1台で約117人の死体を焼いていたことになる。3人ずつ焼いていたとすると、それぞれの台が1日約39回稼動していたことになる。ということは、24時間稼動し続けていたとしても1回の焼却時間が入れ替え時間も含めて約36分ということになる。この稼動の仕方は、本当に工場のようである。

 実際の焼却炉を見てみると、そんなに大きくないので一人の死体くらいしか入らないように思う。しかし、当時の痩せ細った囚人たちの写真を見ると、この小さな炉の中に3人が詰め込まれていたとしても不思議なことではないと感じる。

 3人を一度に詰め込んで、しかも工場のように次から次へと死体を処理していった。まるでモノのような扱いである。そして、ここで生産した灰を肥料として使っていたのである。原材料が人間で肥料を生産していた施設が実際に存在していたなんて、本当に信じられない話である。

 ここまでの展示を見てきて、どのように思ったであろうか。「アウシュビッツでは虐殺はなかった」と思っただろうか。僕には、やっぱり虐殺はあったと感じた。ただし、このアウシュビッツ収容所は、囚人を収容所に移送してくるための列車の引き込み線も収容所内にまでは入ってきていないし、収容棟の数も少なく、焼却炉も少ししかないので、あまり大量の人間を毎日のように搬入して虐殺していたという造りではないように思える。それでも、ここに収容されたほとんどの囚人が、過酷な労働と処刑のために数カ月で死んでいったようだ。

 現在もう一つ残されている収容所、ビルケナウはより大量虐殺を念頭においた施設である。次は、このアウシュビッツ収容所で得た知識をもとに、ビルケナウでさらに恐ろしい大量虐殺の歴史を味わうことにしよう。

↓以下のホームページからコピペしました。

http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora19.html

これが以上お伝えしている通りです。

END